日本最初やくよけ霊場 岡寺 | 『岡寺』と『龍蓋寺』

「おかでら」と「りゅうがいじ」

『岡寺』と『龍蓋寺』

岡寺は奈良県明日香村の東にある岡山の中腹に位置しています。昔には日本の首都、飛鳥京の中心地 飛鳥板蓋宮(大化の改新が起こった場所)、現在は明日香村行政の中心地 明日香村役場の東に位置します。過去においても現在においても政(まつりごと)・行政の中心地のすぐそばに位置しております。

現在広く知られているこの『岡寺』という名ですが実は地名に因る名であり、古く創建時は別の寺名がありました。その名は

山号は 東光山(とうこうさん)
院号は 真珠院(しんじゅいん)
寺名は 龍蓋寺(りゅうがいじ)

といい、山号・院号・寺名がそれぞれあり『東光山 真珠院 龍蓋寺』となります。しかし古来より土地の名から『飛鳥の岡にある寺』=『岡寺』と親しみをこめて呼ばれており、現在では宗教法人としての名も『龍蓋寺』ではなく『岡寺』となっており、『岡寺』の名で知られております。
西国三十三所観音霊場の第七番札所として西国霊場草創1300年来、第七番の観音様として信仰を集めており、また日本最初やくよけ霊場としても知られています。現在は真言宗豊山派に属しておりますが、創建当初より江戸時代までは開山の義淵僧正が法相宗の祖であったことから法相宗興福寺の末寺であり、興福寺から別当(住職)を選出しており、室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務しておりました。江戸時代に長谷寺第32代化主(住職)法住が岡寺に入山して中興第一世となって以来、長谷寺の末寺となり今日に至っています。同じ西国札所の興福寺・長谷寺とは昔から深いかかわり合いがあるお寺です。

日本最初やくよけ霊場 岡寺 | 日本で最初の『僧正』

にほんでさいしょの「そうじょう」

日本で最初の『僧正』

岡寺の創建は寺伝によるとおよそ1300年前、天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立されました。

開祖の義淵僧正とは伝説にみちた人で、生年不明(?~728)。ただ出生には伝説が残されています。大和国高市郡に子供に恵まれない夫婦がおり、彼等は日々観音様に子が授かるよう祈りを捧げていました。そんなある日の夜突然子供の泣き声がして、夫婦が表に出てみると柴垣の上に白い布に包まれた赤子がおり、驚き中に連れて入ると馥郁たる香りがたちまちに家の中に満ちました。その後この夫婦に養育されていましたが、その噂を聞いた天智天皇は観音様の申し子だとしてこの子供を引き取られ、岡宮で草壁皇子(662~689)とともに育てられました。
この子供こそ後の義淵僧正その人である。というのが出生の伝説です。

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後に義淵僧正は草壁皇子とともに育ったと言われる岡宮の地を与えられ、龍蓋寺を建立されました。義淵僧正はわが国法相宗の祖であり、当時『当代きっての傑僧(学識や修行に特にすぐれた優秀な僧)』であると言われ、文武3年(699)にはその優秀な学行(学識・修行)を賞して稲一万束を賜り、大宝3年(703)には日本で初めて『僧正』の位になり、以後神亀5年(728)の入滅に至るまでの25年にわたり同職に就き、日本仏教界を牽引されました。その門下には東大寺の基を開いた良弁、菩薩と仰がれた行基、その他にもおよそ奈良時代の高僧といわれる人は皆、義淵僧正の教えを受けたといわれています。

岡寺が義淵僧正によって創建せられたという最も古い文献は、醍醐寺本『諸寺縁起集』に収める「龍門寺縁起」(*龍門寺・・吉野郡にあったお寺)に、龍蓋・龍門 両寺は義淵僧正が国家隆泰、藤氏栄昌のために建立するところであると記されています。また「龍蓋寺」という寺名は天平勝宝三年(751)の正倉院文書で初めて出てきますが、これ以前の天平十二年(740)七月八日付けの正倉院文書の中でも龍蓋寺所蔵と書かれた仏典があると記されています。

日本最初やくよけ霊場 岡寺 | 始まりの由来と伝説

はじまりのゆらいとでんせつ

始まりの由来と伝説

岡寺は古く正式には『龍蓋寺』という寺名でありますが、この『龍蓋寺』という名は、飛鳥の地を荒らし農民を苦しめていた悪『龍』を、義淵僧正がその法力をもって池の中に封じ込め大きな石で『蓋』をし改心をさせたことからその名が付いたと伝わっています。『龍に蓋をする→龍蓋寺』というわけです。その後悪龍は改心し善龍となって今でも池に眠ると伝わっています。

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その池は現在も『龍蓋池』として境内に存在し蓋である大きな要石を触ると雨が降るという言い伝えも残っており、昔には『龍蓋池』の前で請雨(雨乞い)の法要も行われたと伝わっております。
また悪龍の『厄難』を取り除き飛鳥を守った伝説は、現在まで脈々と続く岡寺の『やくよけ信仰』の始まりの所以の一つであるとも言われています。